ちょうど東京にいたので、駒場アゴラ劇場へ「ミナモザ 『彼らの敵』」の舞台公演を見に行った。
正直、内容についてはほとんど把握してなかった。入った後にチラシを観て、ノンフィクションだと知った限り。
筋としては、1991年に発生したパキスタンにおける早大生誘拐事件。その誘拐された学生が卒業後週刊現代のカメラマンになっていたのだが、誘拐された当時のこと、誘拐解放後のバッシング地獄についてフラッシュバックしながら話は進んでいく。
演技はダイナミックかつ迫真。たった五人でよくぞここまで。パキスタン人も演じたし、誘拐されて生命の危機を感じさせたし、拙い英語のやりとりも本物のよう。さすがプロ。
誘拐後のバッシングは週刊文春の公平性を欠いた記事が原因だったが、大学や家に届く、無記名も含む個人からの正義感に満ちた手紙などが被害者を追い詰めていくという流れ。
しかし卒業後はなぜか虚偽を作り出す片棒を担ぐ週刊現代のカメラマンになっている。パンチラを写すとかいう低俗なカメラマン。ここは正直理解できないので混乱した。ノンフィクションじゃなければ作れない話とも言える。
そして結局よくわからなかった。最後、モデルになった本人のトークショーもあったが、ますますわからなくなったといってもいい。本人といえども過去のこと、本にまとめたわけでもないので、明瞭な当時の記録が残っていないので仕方がないのかもしれない。でもだとすればこの話はなんだということにもなるので、やはりよくわからない。それでも伝える側になりたかったということなのだろうか?
しかしこの演劇で言いたいのは、きっとそんなことではなくて、ごく一部にせよ事実がねじ曲がってしまったということ。しかしそのねじ曲がった点は全体からすれば些細な違いしかない。が、その週刊文春という所詮は週刊誌記事をもとに、なぜか全国紙などマスコミも乗っかり、ついには全国の論調が同情から嫌悪に変わったという。
反論も困難だろう。一部でも非がある以上は、大声で全面否定してくる敵に敵う術はないというのもまた現実。
その劇中の文春の記者の論理は卑怯者に等しいと思った。なぜなら正当な本筋の中に、わずかに誤った
一文二文を混ぜ込んでいると言う点があるからだ。そこには悪意はなかったかもしれないが、バイアスつまり偏向を避けるためと言いながら編集長が偏向させてしまっては何の意味があるのだろうか。これは現在にも通じるマスコミが信用されない最大の理由なのではと思ってしまった次第。信じたい事実に近づけるためのバイアスのようにすら見える場合もあるからなおさらだ。
そのように伝えられた一方的な情報を受け取った安全地帯にいる市井の人は、これまた一方的に責め立てることになった。説法をしているつもりなのだろうから本人は正義の味方のつもりなのだろうが、遠くから観ると、あまりにも短絡的に見える。
が、これは現在でも報道機関の流す一方的な情報によって起こっている現実でもある。報道機関というけど、ネットの炎上も同様だ。思考停止状態になってしまって無責任に人を叩く行為は恐ろしい。
きっと正義感の市井の人は、間違いが発覚するなどして、何かの責任があるのでは?と問われたら、TVが言っていた、新聞に書いてたから、とかそういう言い訳だけをするに違いないのだ。そういう意味で責任の自覚すら一切無い。
果たして敵は誰だ? 行動力あるゆえにチョンボした被害者か、無責任な情報を流した報道機関か、必要以上に人格否定を決めつけた群衆の正義の味方か、無関心を決め込む人達か。世の中はわずかに一歩間違えれば闇に包まれている