2012年05月14日

権利と義務

制度の違いはあれど、国家の代表を決める権利を有する古代ローマ人や古代ギリシャ人を見て、現在の民主主義との大きな違いを考えた。

古代ローマ人や古代ギリシャ人は平等ではなく身分が存在するが、それぞれの地位に応じた知識と矜持を持っている。
古代ローマ人や古代ギリシャ人は努力次第で成り上がることが出来る。(無理な場合もある)
古代ローマ人や古代ギリシャ人は死と隣り合わせの運命共同体の一員である。
古代ローマ人や古代ギリシャ人は各人が責任を持って、彼らの社会(国家)を守ろうとしている。

自分たちの住む安全な国家を守るために時には戦い、時には都合の悪い無能な王や指導者に対してはクーデターを行うことで、自分たちの住みよい社会を築こうとする、いわば不安定な一隻の船の乗組員なのだ。

船の乗組員として、重要な役割を果たす者は頭脳や肉体を鍛え上げることを当然のように行い、それ相応の地位に就き、その地位を誇りに思うのだ。
ひとたび敵船が襲ってこようものなら、たとえ普段は仲の悪い船員同士であっても一致団結して、外敵に対処するのだ。

それに対して現在のいつわりの平等の名のもとに築かれた民主主義の国民はどうだろう。スパイでもないのに、国家という自分たちの安住をもたらすシステムを転覆させようとする者がいるだけでも異常だ。
皆平等だからこそ、相応の知識や矜持を身につけようともせず、身分制度下における最下層とも言える知識や矜持しかなくても平気でいられる。高い地位という誇るべきものがない副作用だ。これはまさに恥の概念の喪失ともいえる。
国家滅亡に伴う死や破滅が想像できないぐらいに遠くにあるものだと誤認しすぎて、個人でも必死になって這い上がるということがなくなり、当然国家という船が沈むことなんて想像すらも出来なくなっている。悲しいことに国家にしがみつくだけの寄生虫気質な人間ばかりになってしまっているのだ。実際は国家は国民一人一人の庇護が必要なぐらいに脆弱なものにすぎないというのに。

無条件な平等主義は、やはり人類のためにはならないというのは間違いあるまい。


posted by アイナット at 23:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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