そもそも経緯も中身も知らないし、知ろうともしておらず、本当に表面だけ観て意味不明な批判をするから、この手の批判をする人達は大きく損していることに気づくべきだろう。結局、常にモンスター、クレーマーにしか見えないのだ。
今回の件にしても、太宰府市主催でもないので、根本的に批判すること自体がピントがズレているのだから手に負えない。実に不愉快。太宰府市のイメージは大きく損なわれてしまったのは歴史好きとしては残念で仕方無い。
さて、その太宰府というか、古代日本の話。
邪馬台国は九州か近畿かで論争になっており、なぜか纏向遺跡などの発掘を元に近畿が優位になっているような印象があるが、実際は明らかに九州というしかないという話。
なぜかといえば、魏志から隋書まで類似した記述が続く倭国の記述によれば、邪馬台国とその後裔の倭国は、山島と明記されているからだ。更にいえば、隋書には阿蘇山の記述すらもある。
そもそも魏志に記されている国のほとんどは山島北部九州の周辺が大半となっている。末盧国伊都国奴国不彌國などだ。それにも関わらず、唐突に周辺国の説明もなく海もないような大和、島かも不明瞭な本州が出てくる発想が不可思議というしかない。
実際問題、隋時代には裴世清という使者が実際に倭国に訪問している上での記録なのだから、なぜ近畿になりえるのか疑問だ。それなら魏書との変化点として記述もされようもの。
また中学生くらいから疑問に思っていたことだが、なぜ日本の遣唐使は事故率があんなに高いんだろう。いにしえの倭国は頻繁に対馬海峡を越えて、朝鮮半島で戦ったりしていたはずなのに。また白村江の戦いなども負けたとは言え大国唐を相手にすらしている。倭の五王の時代には南朝に使者を出している。北朝へ使者を出すよりも遙かに難易度が高いように思える。にも関わらず、奈良時代以後に、平時の海を渡るのにあれほど苦労した意味がわからない。南回り航路にしたというのだけが理由とも思えないのだが。
旧唐書や新唐書の倭国と日本国についての記事についてもなぜ分かれているのか妄想を逞しくすることには罪はないはずだ。なにもかもが全く違う世界がみえてくるかもしれない。だから古代史は面白いとも言える。小説に書きたい。。。